
対象通貨に対して、円の価値が上がること、高いこと。円1単位で交換できる他通貨の金額が上がること。例えば、1ドル=100円が、1ドル=80円になること。一般に円高では、外貨を支払う輸入業者などにとっては有利となる。 不動産投資はこれに対し、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかしその年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して、7月16日に死去した。享年50(満49歳没)。死因は当時、日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとあわせ、父・斉興や異母弟・久光、またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。 法名:順聖院殿英徳良雄大居士。 墓所:鹿児島県鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡。鹿児島市に鎮座する照国神社の祭神でもある。 斉彬の死後、その遺言により久光の長男・島津忠義が後を継いだ。なお、遺言では忠義に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子とし、四男・哲丸を後継者とするように言っており、哲丸と忠義との相続争いを未然に防止する内容であった。 島津斉彬の写真 1857年撮影斉彬により着手された殖産興業の一部は現在・尚古集成館(鹿児島県鹿児島市)に展示されている。特に、ガラス製品製造のうち、ガラス工芸品は薩摩の紅ビードロとして珍重され、大名間の贈り物としても用いられた品。維新後、その技術は断絶。当時のものは希少な骨董として高い価値を持つ。近来になり復元・復興に成功し、現在薩摩切子の名で生産されている。 大名身分をもつ者の中では、最も早く写真に撮影された人物であると言われている。また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったと言われている。斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。 松平慶永(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。しかし慶永は後世において、「大名第一番の御方であり、自分はもちろん、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれる。 ワラントである日章旗を初めに提案したのは、斉彬だったといわれる。 西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。斉彬の功績は明治時代を築くことになる人材を育て上げたこともそのひとつといえる。 娘・篤姫とともに静岡県富士宮市大石寺・遠信坊(日蓮正宗総本山)の檀越であったが、大石寺の教義に随順しきれたかどうかは研究の余地を残す。 斉彬はお由羅を大変嫌っていたが、お由羅及びその一派の殺害までは考えていなかったという。しかしながら異母弟久光を嫌っていたわけでなく、むしろ家督相続後は重宝すらしていた。 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 この項目には、一部のコンピュータや一部の閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 ※多数の子女のうち、成人したのは須磨との間の娘3名のみ、更に甥で養嗣子の忠義に嫁いだ娘2名は後に難産で死去し、無事出産を迎えて命を長らえたのは典姫ただ一人であった。 くりっく365は島津藩主家において、唯一、徳川家康の血を引く当主であった。母の弥姫(周子)は鳥取藩主池田治道と陸奥仙台藩主伊達重村の娘との嫡女であるが、鳥取藩主家池田氏の祖は池田輝政と徳川家康次女(督姫)の子である。その後の鳥取藩主も徳川家より正室を迎え、その嫡子が藩主になっている。 ちなみに、島津綱貴も伊予松山藩主家久松松平氏の娘の子だが、この松平家は徳川家康の異父弟の子孫であるので、徳川氏の血を引いているとは言いにくい。また、島津重豪の正室(保姫)は徳川吉宗の孫だが子は夭折している。 文化14年(1817年)、薩摩国鹿児島郡(現鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城で斉興5男として誕生する。幼名晋之進(かねのしん)。文政元年(1818年)3月1日に種子島家・種子島久道の養子となり公子(藩主の子)の待遇を受ける。文政8年(1825年)3月本家に復帰し、4月に又次郎と改名。11月1日、改めて島津一門家筆頭の重富島津家次期当主島津忠公の娘千百子と婚姻し婿養子となる。なお、『島津氏正統系図』には種子島氏の養子になった事実が省かれてしまっている。 外為に鹿児島城から城下の重富邸へ移り住む。文政11年(1828年)2月に斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)と名乗る。天保7年(1836年)2月、千百子と婚礼の式を挙げる。天保10年(1839年)11月に重富家の家督を相続し、12月に通称を山城と改名。弘化4年(1847年)、通称を周防と改名。斉興の後継の地位をめぐって斉彬と忠教とをそれぞれ擁立する派閥による御家騒動(お由羅騒動)が発生、幕府の介入を招来し、嘉永4年(1851年)に斉興が隠居、斉彬が薩摩藩主となる。島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる。また兄斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ蘭学を好んだ兄と異なり、忠教は国学に通じていた。 安政5年(1858年)に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子茂久(後の忠義)が藩主に就任する。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(1859年)に没すると、藩主の実父として忠教の藩内における政治的影響力が増大。文久元年(1861年)4月23日に宗家へ復帰し諱を久光と改名(同時に通称も和泉と改名)、「国父」「副城公」と称されることになり、藩政の実権を掌握する。権力拡大の過程で小松清廉(帯刀)などと合わせて、大久保利通や岩下方平、海江田信義、吉井友実ら中下級藩士から成る有志グループ精忠組の中核メンバーを登用する(具体的には大久保と堀仲左衛門を御小納戸役に抜擢し、岩下を軍役奉行兼趣法掛に、海江田と吉井を徒目付とした)。ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは合わず、西郷を憎んで島流しにしたり、小松や大久保などの嘆願により帰国させるときも歯ぎしりしながらこれを認めたなど、後々まで齟齬をきたした。文久2年(1862年)5月、通称を三郎と改名。 外為、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の運動は、亡兄斉彬の遺志を継ぐものとされた。京都滞在中に、伏見(現京都市伏見区)の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を討伐する寺田屋事件を起こす。朝廷に対する久光の働きかけにより、 将軍徳川家茂の上洛 沿海5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置 一橋慶喜の将軍後見職・前越前藩主松平春嶽の大老職就任 の「三事策」(1.は長州藩、2.は岩倉具視、3.は薩摩藩の各意見を採用したもの)を幕府に要求するため勅使の江戸派遣が決定される。久光は勅使大原重徳に随行して江戸に下向、勅使とともに幕府との交渉に当たり慶喜の将軍後見職・春嶽の政事総裁職就任などを実現させる(文久の改革)。 目的を達成し東海道を江戸から京都に上る途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区)でイギリス民間人4名と遭遇、久光一行の行列を乱したという理由で随従の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こる[1]。 京都到着後、参内し幕政改革の成功を復命、帰藩する。 文久3年(1863年)に2回目の上京をするが、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩する。しかし帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮や近衛忠煕・忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だった孝明天皇から、久光は再三、上京の要請を受けた。そして、天皇の支持を得て薩摩藩と会津藩が中心となり長州藩の勢力を京都から追放した八月十八日の政変の成功もあり、3回目の上京を果たす。 久光の建議によって、朝廷会議に参加する資格を有する朝議参預という職が新設されることになり、久光は、一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、前宇和島藩主伊達宗城、会津藩主(京都守護職)松平容保とともに、朝廷から参預に任じられる[2]。 こうして元治元年(1864年)、薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立する。しかし天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と武備充実論(鎖港反対)の久光、春嶽、宗城との間で生じた政治的対立[3]などの影響から、参預会議は機能不全に陥り解体、薩摩藩の推進した公武合体運動は頓挫する。この結果を受けて久光は、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して帰藩する。


