
対象通貨に対して、円の価値が下がること、低いこと。円1単位で交換できる他通貨の金額が下がること。例えば、1ドル=100円が、1ドル=120円になること。一般に円安では、外貨を外貨を受取る輸出業者などにとっては有利となる。 FX 初心者が在藩を続けた約3年間、中央政局は、禁門の変、第一次長州征伐、将軍進発[4]、条約勅許[5]、薩長盟約の締結、第二次長州征伐、将軍家茂の薨去、徳川慶喜(徳川宗家を相続)の将軍就職、孝明天皇の崩御、祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚、と推移する。 慶応2年(1866年)にはイギリス公使のパークスを鹿児島に迎えて会談し、薩摩とイギリスの友好が確認された。 満を持した慶応3年(1867年)の4回目の上京では、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城と四侯会議を開き、条約勅許の際に故孝明天皇によって差し止められたものの布告期限が迫る兵庫開港問題や、再征の休戦(事実上の幕府の敗北)後保留されたままの長州処分問題をめぐり、四侯連携のもとで将軍慶喜との協議を進める。しかし、長州処分の先議を唱える(寛典処分を意図する)四侯に対して、慶喜は対外関係を理由に兵庫開港の先議を主張、朝議では慶喜の意向を受けて2問題が同時に勅許される[6]。 朝廷を影響下に置く慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。討幕の密勅が久光と忠義に下されるが、病のため久光は上洛できず忠義が上洛した。 維新後も薩摩藩(鹿児島藩)における権力を握り続けたが、政府に出仕していた西郷隆盛や大久保利通らの主導で、明治4年(1871年)に太政官より廃藩置県が布告されると、鹿児島の久光はこれに激怒、抗議の意を込めて一日中花火を打ち上げさせた。旧大名層の中で、あからさまに廃藩置県に対して反感を示したのは、久光が唯一だった。また都城県が設置されたことに対して、薩隅分断は「長州の陰謀」だと憤怒した[7]。 同年9月に分家し、玉里島津家を創設。 日経225に政府に出仕して内閣顧問、翌7年には左大臣となり、旧習復帰の建白を行うが、政府内の意思決定過程からは実質的に排除された。 明治8年(1875年)に左大臣を辞職。以後、鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わっていた史書編纂・蒐集に専念した[8]。 また、政府による廃刀令等の洋化政策に反抗し、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった[9]。 西郷とは確執があったとされ、西郷らが蜂起した西南戦争では中立の立場をとり、戦火から逃れるため桜島に一時避難している。 明治20年(1887年)に死去、享年70。国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となったため、葬儀のためだけに道路が整備され、熊本鎮台から陸軍が派遣された。玉里家(公爵)は七男忠済が継いだ。 墓所は鹿児島県鹿児島市の島津家墓地。鹿児島市照国町鎮座の照国神社に銅像がある。伯父・斉彬の養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子哲丸が幼少の為に仮養子という形であった。ほどなくして哲丸は死去する。 しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父久光や西郷隆盛、大久保利通らに掌握され、忠義自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった。 先物取引、江戸城で徳川家茂に謁見し、家茂から偏諱を賜り茂久と改名。安政6年(1859年)2月、従四位下左近衛少将に叙任され修理大夫を称する。 徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。徳川慶喜が発した討薩の表では忠義が厳しく糾弾されているが、鳥羽・伏見の合戦では薩長軍が大勝利を納めた。明治維新後は長・土・肥の三藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷隆盛に任せていたと言われている。明治4年(1871年)の廃藩置県後は、公爵となった。以後、政府の命により東京に在住するが、明治21年(1888年)に政府の許可を得て鹿児島に帰郷した。 忠義は犬追物や乗馬を得意とする一方で、写真撮影や花火作りなどにも興味を持つなど、幅広い趣味を持つ人物であった。一方で、明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者・ベルツは日記に記している。西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず、旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。 明治30年(1897年)、58歳で鹿児島市にて薨去。薨去に際して勲一等旭日桐花大綬章を授与される。死後の翌年1月9日、国葬が行なわれた。 先物取引、忠義の墓は尚古集成館に保存されている。[要出典]また、探勝園には忠義の銅像があり、島津氏歴代とは別の場所である常安御墓に葬られている。 天保12年、島津久光の次男として重富館(現鹿児島県姶良郡姶良町)に誕生。嘉永5年(1852年)閏4月に島津久宝の養嗣子となることが決定し、同年3月に家督相続。久宝の娘と結婚する。 文政2年(1855年)に海防総頭取に任命、鹿児島藩の沿岸防衛の要を勤める。文久3年(1863年)の薩英戦争勃発に際して兄・茂久(のちの忠義)の代理として鹿児島藩海軍の指揮を執る。元治元年(1864年)、蛤御門の変でも茂久の代理として皇居警衛総督。同年12月には薩英戦争講和使節代表となり長崎を訪問。慶応2年(1866年)に家老に任ぜられる。若年でありながら次々と要職を勤めたのは、久光次男、藩主・忠義の弟という血統が物を言った物と思われる。 ところがこの頃の鹿児島藩内では倒幕派が主流となり、孝明天皇の基本方針に沿った公武合体派の論調を取っていた久治は窮地に立たされることとなる。慶応3年(1867年)には小松帯刀、桂久武らの強硬論に対して、重職では慎重論を唱えただ一人反論。明治元年(1868年)の戊辰戦争では私領4番隊を会津藩攻撃に向かわせたものの久治本人は参加しなかった。これが若手藩士からは「軟弱」行為と映り、川村純義らに藩主・忠義の目前で詰問されると言う屈辱的な目に遭う。翌明治2年(1869年)2月には家老を辞職。 同年8月、私領15750石を藩に返上、代わりに家禄1500石を賜る。以後は国政・藩政には関わらず以前より関心のあった教育事業に参加し、明治4年(1871年)、所領のあった吉野村(現鹿児島市吉野町)に第12郷校が建設された際、建材の提供などを行っている。 翌明治5年の正月に急死。享年32。島津氏に伝わる公式系図などでは急病が原因としているが、そのころに書かれた西郷隆盛発大久保利通宛書簡では「ピストル自殺」と明言、家老辞職の頃より孤立感から気鬱となっており、父・久光も気遣っていたが手遅れとなったとある。幕末の勝者側の、それも藩主血族としてはあまりにも哀れな最期であった。神号「霊文新治彦命」、墓所は歴代宮之城家墓所である宗功寺ではなく鹿児島市の天神山墓地に設けられたが、戦後になって子孫の手により歴代宮之城家墓所に移転した。 あとには前年生まれたばかりの長男・長丸と未亡人が残された。長丸は長じて島津斉彬の孫娘に当たる島津ハルと結婚、明治30年3月に男爵となり、華族に列した。 城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前薩摩藩主・島津重豪にその才能を見出されて、登用される。ちなみに養父の調所清悦はこの年の11月27日に江戸で死去[1]、この年に家督相続したものと思われる。 後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。


